ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2016年 12 月号 [雑誌] (チームの力 多様なメンバーの強さを引き出す)ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2016年 12 月号 [雑誌] (チームの力 多様なメンバーの強さを引き出す)

ダイヤモンド社 2016-11-10

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 ザッポスは「ホラクラシー」という新しい自律型組織を導入している。ホラクラシーにおいては、意思決定の権限を個人ではなく”サークル”と呼ばれる流動的なチームと役割に持たせる。チームが自らを設計・統治し、チームメンバーは伝統的な階層型組織に比べてはるかに多くの役割を担うようになる。
 ホラクラシー型組織では、サークルの結成・変更・解散のルールを大まかに定めた随時更新文書が組織の”憲法”として承認される。このためサークルは単にみずからを管理するだけでなく、憲法が定めるガイドラインの枠内でみずからを設計・統治もする。憲法では、どのようにタスクを遂行すべきかは言及されない。サークルの結成と運営の方法、サークルの役割の見つけ方と割り当て方、別の役割との境界線の引き方、サークル間の相互干渉のやり方を大まかに示すだけだ。
(イーサン・バーンスタイン他「”自主管理”の正しい導入法 ホラクラシーの光と影」)
 伝統的な組織だと、それぞれの社員は守備範囲の広い役割を1つだけ担って働く。多くの場合、社員が個人で業務を交換したり役割の内容を変えていくのは簡単ではない。自主管理型組織の社員は、非常に具体的な複数の役割をポートフォリオとして担い(ザッポスの社員はいまや1人平均7.4の役割を担う)、組織と個人のニーズの移り変わりに合わせてポートフォリオを作成、修正していく(同上)。
 簡単に言ってしまえば、いずれのチームも各メンバーが様々な役割を果たし、経営をせよ、ということだろう。アメリカというのはどうも極端な国で、今年に入ってからDHBRのいくつかの論文で、「取締役のスペシャリスト化」を主張したものがあった。かと思うと、一方ではホラクラシーのようにメンバーに万能さを求める論文がある。この揺れ動きを、宗教的に説明すると次のようになるのではないか?

神・人間の完全性・不完全性

 ブログ本館の記事「飯田隆『クリプキ―ことばは意味をもてるか』―「まずは神と人間の完全性を想定し、そこから徐々に離れる」という思考法(1)(2)」などで上図を用いてきた。キリスト教など一神教文化圏においては、「唯一絶対の神が自分に似せて人間を創造した」と言われる。単純に考えれば神=人間となるから、右上の象限に該当するはずである。

 しかし、キリスト教の教えを見ていると、人間は元来、不完全な存在として創造されたようである。キリスト教では、一人一人は不完全で差異があるのだが、どの人間も神との直接的な関係において愛を享受することができる。個人は集合体を必要とするものの、決して集合体のために生きるのではない。やがて訪れる神の国の祝福には、万人が一様に参与することができるという平等性がある。

 こうした伝統的なキリスト教の教えは、アメリカの場合やや変形されているように思える。アメリカの場合、自分が生涯のうちにアメリカ社会、いや世界に対してどのような影響力を及ぼしたいのかという使命や自己実現に関する契約を神と締結する。アメリカは表向きは自由で平等な社会であるものの、実はそのような契約を神に対して提示できるのは限られた人にすぎない。また、その契約が本当に正しいかどうかを知っているのは神のみである。だから、アメリカではごく一部の人だけが成功して大きな富や名声を獲得する。こうした考え方には、建国当初の「マニフェスト・デスティニー」の精神が影響していることは想像に難くない。

 アメリカでは、神と正しい契約を結んだ者のみが神の前で平等である。それ以外の人間は、神と正しい契約を結んでいないため、正しい契約を結んだ者によって、その契約のために道具のように扱われることが正当化される。したがって、アメリカでは平等主義と差別が併存する。

 従来、神と正しい契約を結んでいたのは企業のトップのみであった。トップは神と通じているわけだから万能である。それに対して、トップに仕えるその他の取締役や社員は、神と正しい契約を結んでいない。だから、トップに道具のように使われても文句は言えない。彼らは自ら目標を設定することもできない。道具としての機能に徹するのみである。はさみは紙を切ることができれば十分であって、はさみが紙を何枚切るべきかははさみのあずかり知らぬところである(だから、ドラッカーがMBO(目標管理制度)によって、知識労働者が自ら目標を設定しPDCAサイクルを回すべきだと主張した時、アメリカでは驚きをもって迎え入れられた)。

 しかし、アメリカ社会が平等主義を掲げている以上、平等な人々がもっとたくさんいてしかるべきである。一般社員も従来の企業トップと同様に、神の下で平等になるためにはどうすればよいか?アメリカの答えは、一般社員も神と正しい契約を結び、企業トップと同じくあらゆる職務をこなし、その結果に責任を持つということであった。アメリカの場合はこれしか考えつかないのである。

日本社会の構造

 日本の場合、このような問題は生じない。上図については、ブログ本館の記事「山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』―日本組織の強みが弱みに転ずる時(1)(2)」をご参照いただきたい。日本人は、垂直・水平方向に細かく区切られた巨大なピラミッド構造の一部を占め、上下左右に移動しながら他者に貢献する。ピラミッドの頂上に立つ天皇(厳密に言えば、天皇の上には様々な神々の階層がある)によって日本社会の全体像は示されるものの、その全体像はおぼろげである(天皇自身も全体像を完璧に把握しているわけではない)。

 その全体像の中で自分がどんな位置を占めているのかを何となく理解しながら、今目の前にいる他者のために価値を提供する。これは、ピラミッド構造のどの位置にいても同じである。言い換えれば、「分際」を守ることが日本人の徳である。だから、アメリカとは異なり、日本人に万能さを要求することがない。